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メメント・モリ

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Jardin_des_plantes_paris
 

一年ほどだけど、雑誌でコラムの連載をしたことがある。どこで誰に響いているのか、ほとんど手応えらしいものもないまま、毎月800字の言葉をポツポツと紡ぎ出していた。ポツポツと。

暑いあつい海の日の昨日、出かける道すがら、めいいっぱいの蝉の声を耳にして、ふとその連載のことを思い出した。

仕事のあとで、二、三、手もとのUSBにあった原稿を読み返してみた。連載は誌面刷新のせいで終わってしまったけど、このまままた自分の記憶のなかに沈め込むのが少し惜しい気がしてきた。そこで、これからこちらに再録していこうと思う。ポツポツと、順不同、思いつくままに。

まずは昨日思い出した夏の記事から。

21世紀の暮らしの哲学

 

鞍田 崇

 

 第12回 メメント・モリ

 

 蝉の鳴き声を聞いていると、遠い記憶へと誘われる。

 幼少期、夏はかならず瀬戸内の祖母の家で過ごした。岬にあったその家から浜辺はすぐで、日が昇り、蝉の声が聞こえだすと、裸足のまま海へと松林をかけおりたものだ。

 かけおりる途中、素足に松葉がチクチクあたる。時々尖った葉先が刺さる。早く泳ぎたいという思いに前のめりになりながら、片足立ちになって松葉を抜き取り、海へと再び走りゆこうとした瞬間、林の中に響き渡る、蝉の大合唱。その蝉の声がいまも耳に残る。


 変わらぬ夏の記憶は、逆にそれがすでに過去のものであることを知らしめるものでもある。

 かつて祖母が暮らした家はもう何年も空き家となったままで、いまは夏草に覆われている。どこか艶やかな趣が漂っていた海辺の旅館街はリゾート風に模様替えし、猿山や鳥小屋があったバス・ロータリーは広々とした駐車場になった。もちろん祖母はすでにいない。ただ、蝉の鳴き声だけが、いまも変わらず松林に響き渡る。

   黝(あをぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
   庭の地面が、朱色に睡つてゐた。

 書きながらふと中原中也の詩「少年時」を思い出した。夏の午後には、蝉も鳴きやみ、すべてが静まりかえる時間がある。日は高く、日ざしは目が痛くなるほどまぶしく白い。「夏の日の午(ひる)過ぎ時刻/誰彼の午睡(ひるね)するとき」、あたかも何もかもがそのまま永遠に静止したかのような気すらする。そんなただ中だからこそ、僕らは過ぎゆくもの、失われたものへと思いをはせる、とも言えるだろうか。

 夏は、追憶と鎮魂の季節だ。死を思う。哲学をなりわいとしながらも、ひさしく死はもっとも苦手なテーマだった。けれども、そんな僕でも、夏になると、死を思う。これも年のせいか、あらゆるものが生の充溢に輝けば輝くほど、死を思う。

 死を思うことは、具体的で個人的な事柄だ。故人を偲び、失われた風景を想起し、いまここにいる自らの死を思う。どこまでも平凡な日常のかけがえのなさに対する共感として。


photo: Jardin des Plantes, Paris, 2009
(『ソトコト』2011年9月号、No.147)


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